昭和46年02月19日 朝の御理解



 御理解 第26節
 「信心には連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」

 中々難しい御理解です。どこをどう頂いていいか分からん、今日の御理解ね。信心につれはいらぬ。昨日、一昨日は、北野の日吉さんところの宅祭り。あちらへご普請があってもう三年お宅祭りが続いております。もちろんお母さんの信心から息子さんの、いわゆる、ご長男である日吉長吉さんが信心するようになり、そして新築と同時に神様を奉祭申し上げて、その年からお祭りを若先生が参ります、いわゆる、宅祭りで若先生が祭主を勤めるのはここだけです。
 若い先生方ばかり、若い自分の信心友達やらが、合い集まって毎年大変まぁ、それこそ割れるような勢いの宅祭りがあるそうです。今度も青年ばかり三十何名集まったというんですから、昨日お母さんがお礼に出てみえて、もう家に入られんごとございましたち。と言う様な、まぁいわばお祭りが奉仕とるわけです。成る程日吉さんの信心には連れはいらん、いらんと言う様な信心をしておられますね。いわゆる(?)(?)(?)。自分だけがそれこそひそかに信心していかれる。
 と言う事は信心の味わいというものが段々分かってくる。毎月御理解研究会などもございますけれども、まぁ皆御理解の研究を、まぁしようと思い立つ人はありますけれども長く続きません、いわゆるまぁ勉強なんですから。けれどもやはりいつも中心になって日吉さんが御理解いわゆる研究。御理解のいわゆるより一段広く、又は深く(?)御理解を頂いていっておられる。いよいよ(?)御教えの有り難さ、素晴らしさ。
 どこまで研究しても研究、いわば掘り下げても掘り下げても限りがないほどしに深さのあるお道の信心に、いわば、傾倒していかれるわけね。ですからこれはもう正しく信心に連れはいらぬ。(?)自分一人でも朝参りが連れて行っていかれる。又御教えを頂いてそのみ教えをほんとに究明していこうと。もう人ではない。始めの間は支えよっても、やはりその日吉さんについていけれるものがない。ところその頃にはもう一人信心することが楽しゅうなっておられる。
 もう人のことじゃない自分のことである。自分のものだとね。ここまでね、こうやって頂いてまいりますとこの御理解が少し分かってくるのですね。成る程信心には連れはいらんなと。そして一番最後に、日に日に生きるが信心なりなんて、もう全然こう関わり合いのないような言葉で〆ておられますね、御理解。けれども今の日吉さんの例を取りますとです、この辺が少し分かるような気がします。成る程信心とは、日に日に生きるが信心なりと言った様な意味が分かります。
 でそれかといってだから、(?)なら日吉さんところの、さぁお祭りだと言う事になりますと、若い人が皆連れのうて来てまいります。始め準備がありますから、末永さんが先に御用にまいります、迎えにみえられた。でもうあんたは(?)ありますでしょうか。(?)(?)けれどじゃ又、若先生後でお迎いに出ますからと言うて、行かれた。それからまぁ、その後からまいりました。ところが迎えに来た自動車が動かなくなったち言うたわけなんです。押せども引けども動かんそのおこらんわけでしょうね。
 「たくましや自動車をして宅祭り」なんて、句ができた。実に逞しい(?)。しかも若い人達が沢山、ね、日吉さんのところへ日吉さんのところへと集まっていく。宅祭り。皆(?)(?)こう教師達。いわゆる宅祭り皆、(?)(?)若い人達逞しい先生どんばかりが行きよる。若先生、末永さん、それから光昭と。三人で参ります、宅祭り(?)(?)教師達。そういうまぁ元気いっぱい元気はつらつなしかも自動車が動かんなら自動車を押してからでも行こうかち言う様な人達が、いわば日吉さんのところのお祭り、お祭りへと。しかも三十何名が集まった。
 信心に連れはいらん。連れはいらんけれどもですね、そういう信心が今度は皆がそれに傾倒してくる。要するにあやかろうとする、例えば熱心に朝参りができるね。そこに信心の味わいが分かれば分かる程、有り難いもったいないという信心にです、連れはいらんけれども、連れができてくるわけです。幹三郎のあの(?)(?)一月の祈願の御祈念が一と月間続けられました。その時から朝参りを始められた方が何人もある中に、(?さん)がお参りになられる。
 毎朝お参りをしてみえれる、一生懸命幹三郎ちゃんのことをと言うてお取次ぎを願って、お願いをなさっていかれるうちに一月が終わる頃になったら、もう朝参りは(?さん)には切っても切れないもの。もう止めように止められないものにまで信心が育ってきた。最後の時にもう今度の私のおかげは幹三郎ちゃんのおかげでと言い、いわゆる、信心らしい信心が分かってきたと喜んでおられる。以来朝参りが続けられてる。大体が皆さんもご承知のようにもう実意丁寧な方ですからね。
 もう信心がずっともう派手でもなからなければ、その賑やかな事はないけれども、静かに静かに信心が進められる。所が最近では近所におられますあの久保山さんが一緒についてお参りをされる様になった。どうも久保山さんご自身も朝参りの有り難さが分かってこられたような感じ。朝いつも連れてだってお参りなっておられる、成る程信心にはつれはいらん。いらんのだけれどもねそれはね、それに連れのうてくるもの。
 そこにね私は信心は日に日に生きるが信心なりのいうほどしの信心ができてくる時に、それに周囲周辺にですそうした有り難い雰囲気が生まれてくる。人間というのはやはり、この同志なげきというのがありますね。自分一人自身は寂しいちうか馬鹿らしかちう。人までに道ずれに連れて行きたいようなものが人間の中にあるのです。それこそいうなら、それは逃げておる。けれどもねいわゆる、今なら日吉さんの例を申しますと、そういうついていかなければおられないものが信心によって生まれてくる。
 そういう一つの原動力になれるような信心をお互い一つ極めていきたいとこう思います、そこにはね、信心には連れはいらんと言う所が一つ分からなければ。いや信心に連れはいらんという、もう自分一人できる。ここは有り難い信心の喜びに浸っておれれるのである。少し有り難い、さぁここで信心が有り難い。少し有り難い、あなたもお参りなさいあなたもと。成る程そういう時代もある。
 けれどもそれは自分自身も長続きしない、ついてくるものもそんな一変というて好奇心にかられてまいるような信心では長続きしきらない。問題は自分自身がいよいよ信心を極めていくところの味わい、日吉さんの場合実に対照的ですけれども、片一方は勿論若いし、非常に勉強熱心の強い方ですから、このいわば、御理解の研究と言った様な事にも有り難いもの感じておれる。日参の修行も又、有り難い。と言う様なできていっておるという感じですね。
 喜代司さん当たりなんかも、兎に角もう勿論その御教えを頂かれる。喜びというものはありますけれども、もう理屈じゃない。どうしてですかと例えば聞いてもただもう有り難いからと言うより他ないような信心。やっとこう信心の有り難さが染み込んでいくという、いうならもう、誰が参るな言うても参らにゃおられない様な内容のものが育っていっておる。それこそ遠かろうが暗かろうが、降ろうが照ろうがその信心がね、一人一人信心せよと仰る一人信心させて頂く言が有り難いと言う事なってくる。
 そういう信心にです、やはり人がやはり、ついてみえれる内容があるわけですね。激しく燃えると言った様なことではないけれども、どうも金光様のご信心はそう言う様ないき方の方がぴったりしておるように思うね。そこで自分が有り難いからと激しく、まぁ信心に燃えて、そしれ誰も彼にも話さなければおられん連れて参らなければおられないといったような場合にです、皆いわば逃げておるというのが本当である。あの時会うたら又、神様話しを聞かされる。
 又あの人から無理にさそわれるからむしろ逃げられるような信心(?)。そういうまぁ、一つの過程といえばそれまでですけれども、そういう信心ではなくてね、ついてこなければおられないようなもの。ついていかなければおられないような内容。それが私は一人信心せよ、信心には連れはいらんというような信心だと思う、そこからね、日に日に生きるが信心なりといったような信心生活、生き生きとした信心生活ができてくる。そのいわゆる、生き生きとした信心生活には。
 今度は連れはいらんのだけれども、いらんだけれども、そういう信心には人がついてくる。人が関心をもつ。その前に二四節に「大勢掛け声で一度に力を揃えれば持ち上がる。バラバラでは持ち上がらぬぞと。家内中勢を揃えた信心をせよ」というふうに教えておられます。そう言う様な家内中、バラバラでは持ち上がらぬ。家内中勢を揃えた信心をせよとこう。だから今日私が申しますような内容をもって、家族が勢を揃えて来る事になる時にです、その信心はいよいよ強いものになってくるとこう思いますね。
 私一人の信心じゃでけんけんであんたも加勢してくれという、成る程そういう信心ではなくてね、ついていかなければ、ついておられないような信心。例えば日に日に生きるが信心なりと言う様な言をこれをまぁ、もう少しまぁ哲学するならね。日に日に生きるが信心と言う事は、もう日に日に自分を空しゅうしていく、日に日に死ぬるが信心なりというような厳しいことになってくるんです、と私は思うんです。日に日に生きると言う事はね、日に日に生き生きとした信心。
 そこにはね、日に日に新たな信心が生まれておる、いうのですから、過去の信心はもうね、死んでいくもう無くしていきよる、というほどしの信心。いうらば我情我欲を抜きにするというかね。一日をいわゆる、自分を空しゅうしての信心生活というか、こういうのは素晴らしいね。自分を空しゅうしての生き方。そこにはだから、自分を空しゅうしておるのですから、不平もなからなければ不足もない。一生懸命というたらこのくらい一生懸命なことはない。暑い寒いも感じんで済むほどしのもの。
 そういう信心ができていく。例えば(さん)が北さん辺りの場合のご信心がそういうなものじゃなかろうかと。日に日にが自分というものを空しゅうしていかれるような感じだね。だから日に日にが有り難いものがもう誕生しておる。成る程日に日に生きるがと言う事は日に日に誕生、新たな信心が誕生していくと言う様な信心。成る程こういう信心になってくる時にです、信心には連れはいらんと言う事になるだろう。自分一人いわばこのいつもいっておると言う様なものでもないでしょうけれども。
 信心の喜びに浸っての生活。そういう生活が芯になってくる時にです、連れはいらんと言われても、やはり、連れができるほどしの賑やかな信心がそこにできてくる。合楽のいわば、青年の方達が皆日吉さんの信心になんとなしに、まぁ何と言うですかね、まぁいうならば、憧念心を燃やしておる。勿論おかげの信心が誕生したけれども、最近でのあちらの日吉さんの家の信心は、いわゆる日吉長吉さんの信心が中心になっておる。皆んながいうならば、憧れるようなものを内容を段々備えていきよる。
 そこにいうなら、日吉さんところへと日吉さんところへとお参りをする。又は集まっていってそんな、賑やかな逞しさを感じるような信心がそこに、皆んなの信心にもそれを伝えていくというかね。伝えて自然にそれが伝わっていくとこう言う事である。作日の朝、北野の秋山さんがお届けがありました。「若先生にどうぞお礼申し上げて下さい」ちうて若先生(?)と言うてからもう今日ここで聞いてもらうわけですけれども。あちらの(ていこさん)がお参りをする。
 娘のことのですから弟のみつゆき君が送って行ったらしい。いうなら(?)というのでまぁ、お祭りを拝ませてもろうた。いうならまいらあのみつゆき君が参るとは思ってかなかったみつゆき君が参ったもんですから、まぁ、若先生のまぁ参ったと言う事に対してこれは一つの何と言うでしょうかい。そういう雰囲気なんですね。御直会の時にみつゆき参ったかと、ひとつ歌えと、まぁ言われた。帰ったらもうそれがもう嬉しゅうしてこたえんやった。若先生が僕にみつゆきちいわっしゃった。
 もうほんとに有り難かったちね。例えば、連れはいらんけれども、そのつれができてくる働きができてきて、しかもそういう例えばいうならばですね、こら!みつゆきと、例えば自分のその弟にでも言う様な言い方が、有り難くしかも出来れるという雰囲気が生まれておるね。予期しなかった有り難いものにみつゆき君触れてね、「お母さん、明日参って若先生にお礼ば言うといてくれ」ちうたち、いわゆるそれはどこかとというと、結局は日吉さんの信心が芯である。
 そういう信心の熱が、いうならいわゆる、皆まゆき、こゆきというその勢いのある先生方ばかりが集まっていくようなお祭りが、ご直会の雰囲気までそういう有り難い連れを作っていきよる。そういう一つの信心というのはね、働きを持つのである。本当の意味においての信心。それは日に日に生きるが信心なりと言った様な信心を目指しての信心、それこそ信心につれはいらん内容ね。
 信心がいよいよ深く、より有り難いものになっていく。信心に連れはいらんけれども。連れは生まれてくるほどしの私は信心内をもった信心でなからなければならんというなことをまぁ、教えておられるではなかろうかというふうに思います。これは非常に難しい御理解ですね。けれどもまぁ、今日そんなふうにまぁ、日吉さんところの宅祭り感じさせて頂くこと。又は最近(?さん)信心に久保山さんが何となしに有り難い。いわゆる有り難いお参りをしてです、お参りができていきよるなさるバイ。
 恐らくあれは又、次から次と移っていく事であろうと思う。信心の同僚が増えていくというほど楽しい有り難いことはない。それも参らんお参らんのというものじゃなくてね、内容に日に日に生きるが信心なりと言った様な信心にそういう同僚ができていくようなおかげ。教祖様の願い、いうなら、教祖様はそういうところを教えておられるではなかろうというふうに思うのです。
   どうぞ。